必ずしも、
見た目の良さが、かっこよさに直結するとは限らないわけで。
必ずしも、
聞こえのいいものだけが、名曲であるわけでもないわけです。
だとするならば、
直接的に目に見えるものや聞こえるものは、なんなのだ
と言う疑問にぶち当たるわけです。
本質を見失うと目も当てられない。
…、カッコいいって難しい。
日々の鍛錬とじつづきです。
外構工事の終盤、
庭の作業も大詰めを迎えております。
ラスト二日にして、お施主さまと造園屋さんが
一緒に土を愛でる機会があり
川田の家の工事は有終の美を飾りつつあるわけです。
私のブログは大いに時間差をもって発信されるので
この文章がいつアップされるのか分かりませんが
一難去ってまた一難。
いつまで経っても前に進めない、
いや、進まない。
問題の本質が何だったのか、
そこに蓋して前進や進化などある訳がないのです。
この後に及んで、またやるんだと思ってしまうと
心を失い、魂を失い、
事務的に粛々と歩を進めるだけのものに成り下がります。
そうだ、私はかつて
地獄の底でこんなことを思っていたのだと
改めて気がつかされます。
なりたくない自分、建築人でありながら
最終的には自分を守る、そういう話です。
木鶏会が今月も行なわれました。
コンパのメインは蟹で、
木鶏会よりも調理に時間がかかるくらいの
盛大な食卓になりました。
色んな意味でハードルの高い木鶏会ではありますが、
あらゆるものを埋めるのはいつも
こういうシチュエーションです。
はじめての人も、ベテランも、
救い救われ、その事の重大さに気がつくのです。
川田の家の、ワックスがけ作業が行なわれました。
長かった家づくりも、
泣いても笑っても、最後です。
日々、家をつくる私たちは、建物に目がいきがちで
つい暮らしについて手薄になったりする瞬間があります。
素晴らしい家具や、快適な性能。暮らしにマッチした間取りなんかも、
誰かの価値になり得るものではありますが、最終的にはランドスケープ。
地球規模で何をデザインするのか、なにか大海に触れたような体験でした。
町とともに時間を過ごしてどのように“morineki”が変化していくのか、
興味の尽きないあたりであります。(ほ)
一方で、日々家づくりの現場に足を運ぶ私としては、
柔らかな部分だけではなくて、実の部分も見たいし聞きたいわけです。
耳を欹ててみると、やっぱり言葉の端々に力強さを感じ
戦い抜いた者の言葉の温度を感じるわけです。
こういったプロジェクトが一筋縄でいくわけなく、
あらゆる屍の上に成り立つ完成形のはずです。(いい意味)
人に色濃く影響を与えられる建築は、家だけだと思っていましたが
町づくりやランドスケープの担う役割も大きいのですね。
住人がいて、商人がいて、山人がいて、家があって、店舗があり、自然がある。
建物間の距離と各用途で分けたであろう建物の高さをデザインすることで
生駒の山と空がぐっと中庭に近づく印象を受けます。
月並みな言い方ですが、「空が近い」のです。
近い空が一層その魅力を放つ工夫が、川の水面までレベルを落とした居場所で
いつも見下ろしていた川の水面近くまで視線を落とすことで、空への意識も大きく変わります。
水平に広がる矢印の中、空と水面をつなぐ縦軸まで現れるわけですね。
つまり、町を歩いていると急に視界が開け、空を近くに感じる。
私の感じた「大東らしくない」という違和感は、この感覚のデザイン操作からくるもので
大東らしからぬおしゃれスポットなどというものとは一線を画すわけです。
近隣の住人たちの“morineki”の評判をうかがうと、「トイレが好評」とのこと。
なにも、町に寄与するのは敷地や高さばかりではないのです。
敷地内には味のあるいびつな形の立派な桜の木が立っていて、
通行人の歩や目線を誘い込むような魅力的な佇まいで、
聞けばその桜は、もともとそこに立っていたそうです。
市営住宅の新しいプロジェクトとして計画する中では、
新しいチャレンジに身も心もとらわれがちです。
そんな中、過去への目くばせや思いをはせるリスペクトに溢れることで
桜の木の魅力も一層深くなるようです。
シンボルツリーという言い方をされていましたが
正に、なにもかもを誘い込むこの桜の木は
町の中における“morineki”そのもののように感じました。
特に私がときめいたのが、各住居前に配された「廊下」です。
およそ「廊下」と呼ぶには機能が満ちすぎていますが
何もないようでなんでもある、その「廊下」にこそ
このプロジェクトの核・本質のようなものを感じます。
生活を外に開く、とは住居から外という意味かと思っていましたが
庭や道と住居を行ったり来たりするスケールではなくて、
およそ生駒山から四条畷駅までを取り込む壮大な水平の領域です。
スケッチしていたら、領域で線がぐちゃぐちゃになりました笑